被害妄想とドラマ三角形
精神医学における被害妄想
「被害妄想」という言葉は、精神医学では統合失調症などの精神疾患の症状を表しています。「テレビが私の悪口を言っている」「盗聴されている」というようなことを、そのような事実はないにも関わらず、「確かにそうなんだ」と思い込んでしまうような症状です。
妄想の一種。特定または不特定の他者が自分に危害を加えると信じこみ,そのような事実はないと説得されてもその非合理性を訂正し得ない。統合失調症(精神分裂病)に多くみられ,迫害妄想,関係妄想,嫉妬(しっと)妄想などもこれに属する。(*)
と百科事典にはあります。
「そのような事実はないにも関わらず」というところが問題で、考え出すと「ではいったい誰がそれを判断するのか?」ということになりかねません。
現代社会では、「精神科医が判断する」ということになっていますが、お医者さんは探偵ではないので、「本当に盗聴されていないかどうか」なんてことはわかりません。
とはいえ、「妄想」というのはわりと型にはまったプロットをもっていて、それほど斬新な妄想というのはあまりないのです。精神科医を始めとして精神医療に関わっている人なら、「妄想的な話」というニュアンスを感じるのは容易でしょう。
「妄想」というものは、「脳が複雑な情報を処理しかねているとき」にそれを単純化するための物語なのです。
だから、「どこかで聞いたことある話」になるのは、ある意味当然とも言えます。
「複雑な情報」というのは、曖昧ではっきりしない刺激です。簡単に言えば、「よくわからない」状況や関係というのが、もっとも複雑で、人にとって不安を喚起するのです。
「いま・ここ」と「いつか・どこか」
「被害妄想」なんて言うと、「精神科の話でしょう。自分には関係ない」と思われるかもしれません。
でも、私たちも日々、いろんな「妄想」に浸っているのです。
「妄想」という言葉は、日常用語としてもわりと使われます。もともとは仏教用語で、「もうぞう」と呼ぶそうです。精神医学で言う妄想よりも、範囲が広くて、過去のことをくよくよ悔やんだり、未来のことを先取りして不安がる、あるいは「こうに違いない」と思い込むといった、私たちの日々の心の活動を表す言葉です。
チンパンジーなどの類人猿とヒト(ホモ・サピエンス)を分ける特徴は何でしょうか? ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』によると、それは「まったく存在しないものについての情報を伝達する能力」です。
私たちの思考や言葉は、「いま・ここ」にはない何かをイメージし、それを他者と共有するという能力を進化させました。ハラリはそれを「認知革命」と呼んでいます(7万年前から3万年前に起こったそうです)。
この「認知革命」によって、サピエンスは、伝説や神話、宗教、あるいは貨幣や国家などを創造することが可能になったというのです。「いつか・どこか」にある世界(天国や理想の国家など)を共有し、あるいは「もしも」という可能性をイメージすることができるようになりました。
このことで人類はずいぶん発展したのですが、同時に、私たちの心は「妄想」を抱え込むようになってしまいました。
「どこかで自分のことが悪く言われてるんじゃないか」
「もしもまた失敗したらどうしよう」
「この病気はきっと悪くなるに違いない」
こうしたことを、繰り返し考えては、不安になるのが私たちの心の特徴です。
カープマンのドラマ三角形
精神医学でいう妄想が定型的なプロットを持つのと同じく、日常生活での「妄想」もまた典型的なパターンがあります。
交流分析のカープマンは、被害妄想的な物語のパターンを「ドラマ三角形」と名付けています。
率直なコミュニケーションがないと、人間関係はうまく機能しません。
そこでは、極端な思い込みや被害妄想が行き交い、お互いを傷つけ合ってしまいます。
ドラマ三角形は、
- 被害者(犠牲者)
- 救済者
- 迫害者
の3つの役割から成り立っています。
被害者は、「誰かのせいで傷つけられた。あいつはひどい人だ」「自分はなんて不幸なんだ」「私は悪くないのに、ひどい目にあった」と思っています。
救済者は、傷ついている人、困っている人を助けようとします。他人から助けを求められ、それに応じることで、自分自身が価値のある存在だと感じたいのです。
迫害者は、他者の価値をおとしめて攻撃します。被害者だったので、「仕返しして当然だ」と思っていることもあります。
この3つの役割が、実際の人間関係の中で演じられていることはけっこう多いのではないでしょうか?
「被害者」役の人から、「迫害者」や「救済者」役を押し付けられたり、あるいはいつのまにか役割が入れ替わったりすることもしばしばあります。
また、個人のアタマの中でこの「ドラマ三角形」がぐるぐると動いていることもよくあるでしょう。
「あいつのせいでこんなに苦しんでるんだ。そのうち復讐してやる!」
といったストーリーをアタマで作って、自分を苦しめてしまうのです。反対に、「自分がみんなを助けるんだ」とナルシスティックな物語に飲み込まれてしまうこともあるかもしれません。それは、劣等感や自信のなさの補償作用のようなものです。
物語を見抜く
こんなふうに被害妄想的な物語にはまり込んで苦しまないためには、どうしたらいいのでしょうか?
「おや、自分のアタマはこんなストーリーを作っているぞ」
「これは例のドラマ三角形ってやつだな」
と気がついて、少し距離をとって眺めることができるといいのです。
なかなか難しいことではありますが、意識的に練習しているとちょっとずつ上手になります。
- 自分の考えを観察する時間を作る
- ノートに考えていることを書き出してみる
- メールを書いてみる
- 「この物語は、自分を傷つけていないか」と確かめてみる
- いま・ここに戻る方法を持っておく(音楽や料理、運動、呼吸、瞑想、などなど)
といったことが役に立つこともあります。