沈黙することと語ること
「かささぎ」という名前について引き続き書くといいながら、すっかり時間がたってしまいました。そのあいだに、文字通り、私たちが大きく激しく揺さぶられるできごとが起こりました。
あまりにも大きなできごとが起こったとき、私たちはしばしば、ことばを失ってしまいます。あるいは、必要に迫られて、実感の伴わない便宜上のことばを使うことになります。
ことばの失われた空白の世界にいることも、実感とずれたことばを使い続けることも、どちらも苦しいものです。でも多くの人は、この2つの極を行き来しながら――ひとによっては怒ったり泣いたり、あるいは深い暗闇に沈んだりしながら――やがて少しずつ、自分のことば(あるいは物語や意味)を見出していくのではないでしょうか。
そうしたことばが育つ培地になるものは、「語っても、語らなくてもいい」場所や関係性ではないかと思います。語れば耳を傾けてくれるひとがいる。だけど無理に語らなくてもいい。
そういう広がりのある場所や関係性のなかにあるとき、こころは自由に動きはじめることができます。ことばとは、沈黙と語り(あるいは騙り)という2つの極を行ったり来たりすることによって、紡ぎ出されていくものなのかもしれません。これは、自分との対話においてもいえるのではないかと思います。
ことばを大切にするからこそ、あえて、「語らない時間」の大切さについても認識しておきたいと思っています。ゆっくりゆっくり、ことばにしていきましょう。 (A)
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