暗やみの底で

 もう10数年以上も前のことですが、無料の電話相談を担当していたことがあります。当時の勤務先で週に1回、3時間ほどのことでした。通常のカウンセリングとは違い、背景のわからない、顔も見えない人の相談(多くは今つらいです、というSOS)を聞くことに、毎回軽い緊張があったことを覚えています。他の場所では体験できないような出来事もいろいろありました。要望に応じられず、「あんたは人を救う気があるのか!」と怒鳴られたこともあります。自分の無力さを痛感することも多々ありました。

 そんななかで忘れられない相談があります。電話の声は女性で、おそらく年齢は中年に差し掛かったくらいでしょうか。「心の不調でもう長く働くことができず、親に迷惑をかけるばかりなので、死ぬことにしました。今から裏山に行って、首をつろうと思います」と言われました。「死にたい」ではなく、今から死にに行きますという「宣言」です。迷いや苦しみの果てなのか、口調は平板でどこか淡々としていました。今どこにいますか?と尋ねると、自宅の玄関に座っていて、横においてあるリュックのなかにはロープが入っています、と教えてくれました。電話の向こうの薄暗い玄関の様子がありありと目に浮かぶようでした。

 どうして電話をくださったのか尋ねてみました。いざ家を出ようとしたら、お礼を言いたくなった、とおっしゃいます。「お礼」というのはどういうことか、さらに聞いてみると、誕生日がJR福知山線の脱線事故が起こった4月25日であること、そのせいで自分にも事故の責任があるように感じていることを語ってくれました。当時のわたしの勤務先が脱線事故の被害者のこころのケアにたずさわっていたことを、報道で知ってくださっていたようです。

 もちろん、脱線事故にその方の責任はなにひとつありません。関係のない事柄を無理に結びつけようとするのは、歪んだ認知、あるいは妄想ということになるのかもしれません。でもそのときわたしは、他者の苦しみを自分のものとして引き受けてしまう、そういう心のありように、なにか宗教的なものを連想しました。そして手を合わせたいような気持ちになりました。

 自分がなんと言ったのか、正確な言葉はもう覚えていないのですが、その方が事故の被害者とともに苦しまれていることを聞いて、とてもありがたい気持ちになったというようなことを伝えたと思います。そして「今日こんな方と電話でお話したということを、他の人にも話していいですか?」と聞きました。するとその方は、しばらく沈黙したあと、「そうですか…。ありがとうございます。よろしくお願いします」と言われ、静かに電話を切りました。その日の担当が終わったあと、約束通りその方のことを他のスタッフに話しました。

 その数日後、また同じ方から電話があったそうです。別のスタッフが担当したのですが、わたしにお礼を伝えてほしいとおっしゃっていた、とのことでした。

 このときのことを、自死を止められたエピソードとして紹介したいわけではありません。わたしはその方に、死を思いとどまらせるようなことはなにも言えませんでした。死を思いとどまったのはこの方自身であり、わたしがそうさせたわけではないのです。

 むしろ救われたのはわたしのほうでした。この方の言葉はわたしの奥深いところにあった無力感と響きあい、不思議な癒やしの作用をもたらしました。それになにかお返しをしたいという思いから、「他の人にも話していいですか?」と尋ねたのだったと記憶しています。そこには、人とのつながりを求める気持ちがあるからこそこうして電話をかけてこられたのだろうという、カウンセラーとしての勘も働いてはいました。でもそれが、死を思いとどまらせるほどのものであるという確信まではありませんでした。むしろそういう作為を超えた会話だったからこそ、この方の心に届いたのだと思っています。

 すぐ近くにいても、人が心の奥底に抱えているものは目に見えません。そういう意味ではわたしたちはみんな孤独です。だからこそ、誰かと心を響かせあうことができたとき、胸が躍ります。わたしはあのとき、抱えこんでいた無力感という暗い通路を通じて、死んでいこうとする人と深い対話をすることができました。それはわたしに癒やしを、この方にもう少し生きてみようという思いをもたらしました。

 ありふれた表現ですが、暗闇があるからこそ光がある。痛みや悲しみはカウンセラーにとって、ある意味、財産なのでしょう。それにのみこまれてしまっては役割を果たせなくなるので、まあ、あまり多すぎないことを願いますが。(A)

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