同じ月を見上げる
まん丸いお月さんですね。
夏目漱石が英語教師をしていたころ、生徒に「I love youをどう日本語に訳せばいいのか」と聞かれて、「今夜は月が綺麗ですね」とすればいいと答えたという話があります。当時の日本人は「あなたを愛している」などとは言わなかったからだそうです。出典がはっきりしないので誰かの作り話という説もありますが、あなたと私の二者関係ではなくて間に月を置いてみるというのはちょっと面白いですよね。そう、先日の「うなぎなるもの」と同じ構図です。
小津安二郎の『お早よう』という映画のラストシーンでも、なんとなく好き合っている二人の男女が駅でこんな会話を交わしていました。
「いい天気ですね」
「ほんと、いいお天気」
「あ、あの雲、何かに似てる」
「ほんとに、何かに似てるわ」
「いい天気ですね」
「ほんとにいいお天気」
雲のかたちなんてどうでもいいようなものですが(いやいや、ロールシャッハ・テストではないですが、こういうなんとでも見えるものに人は自分の心を投げかけるのかも)、こうした会話には言外に二人の関係を確認するメタ・メッセージとしての役割があります。逆に、「あなた私のことどう思ってるのよ」とか「君と僕の関係は」などと二者関係をいちいち直接言い出すカップルの多くは、いくらか(あるいはけっこう)危機的な状況にあるんじゃなかろうかとも思います。
『共視論—母子像の心理学』(北山修編/講談社)という興味深い本があります。発達心理学で共同注視(joint visual attention)と呼ばれている概念を扱った本で、母と子が花火やしゃぼん玉といった同じ何かを共に見つめるという現象がテーマになっています。なぜ共同注視という概念が重視されるかというと、同じ対象を共に視るということは子どもが母親という他者の意図や心の状態を理解することができるようになりつつあるということを意味しているからです。
浮世絵には、母と子が同じ対象を見つめている母子像がたくさん描かれているそうです。同じものを見つめるということは、他者を理解したり、共感するための土台です。また、共に見るという行為は、何かを共有している、つながっているという感覚を育てていくための根っこのようなものです。この根っこが育つことで、他者の気持ちをくんだり、あるいは他者を鏡にして自分自身の心を見つめることができるようになっていきます。
振り返ってみれば月なんて、きっと何千年も昔から「共に眺める」対象だったんでしょうね。
「川上とこの川下や月の友」という芭蕉の句にも表現されているように、遠く離れていても「共に眺める」何かがあれば、ちゃんとつながりや共感をつくることだってできるはず。
個人的には、携帯電話やメールやSNSよりも深くつながることができるんじゃないかと思います。たまには月を見上げて、これまで出会った人々のことを思ってみるのもいいかもしれません。(久)