自分の顔をもつということ
夏になると、出版社が文庫フェアを行います。日本の夏はあまり読書向きとはいえませんが、各社の「夏の100冊」のラインナップをながめているだけでも、なかなか楽しいものです。
かささぎからも、気軽に手に取れて、こころについて考えさせてくれる1冊を紹介します。
フィンランドの女性作家、トーベ・ヤンソンの『ムーミン谷の仲間たち』(講談社文庫)。
ムーミンといえば、子どもの頃にみた、アニメや絵本を思い出す人も多いのではないでしょうか。アニメのムーミンは楽しいファンタジーですが、原作は、フィンランドの森を思わせる暗さをそなえた、深みのある物語です。
この作品には、「谷の仲間たち」の暮らしぶりを描いた、9つの短篇がおさめられています。個性あふれるトロールたちの姿に、自分や周囲の人たちの分身をみつけて、にやりとしたり、どきりとしたりできること、うけあいです。
「目に見えない子」というお話では、ある日、谷の仲間がムーミン一家のもとに、ニンニという女の子を連れてきます。ニンニは、おばさんに毎日「氷のようなひにく」をいわれ続けているうちに、だんだん青ざめて、はしのほうから色あせて、ついには姿が見えなくなってしまった女の子でした。
「いったいぜんたい、どうしたらこの子を、また見えるようにできるかねえ。医者につれていったもんだろうか」。戸惑うムーミンパパをよそに、ママは落ち着いて、「わたしはそうは思いませんわ。きっとこの子は、しばらくのあいだ、見えなくなっていたいと思ったのよ。(…) 気分がはれるまで、そっとしといたほうがいいわ」といって、ニンニのためにベッドをこしらえ、枕元にりんごやキャラメルを用意してやります。
ムーミン一家のやさしい気づかいと世話をうけて、ニンニの姿は少しずつ見えるようになっていきます。まず、ちぢこまった足の指が見えて、続いて、ひょろひょろした2本のすねが見えてきます。やがて、茶色の服があらわれました。でも、ニンニの顔だけは、いつまでたっても見えるようになりません。
ニンニをいたわることにまったく興味がないのが、ちびのミイです。遊びの天才であるミイは、みんなのあとをおとなしくついて歩くだけのニンニが、つまらない。ミイは、なにかをおもしろがる、ということができないニンニに対し、「なんかあんたは、話すことがあって? それとも、なんかあそぶことを知ってる?」「あんたは走れないの?」「あんたには、命ってものがないの?」と容赦がありません。
どんどん激しくなっていくミイの毒舌にも、「ごめんなさい」としかいえないニンニ。そんなニンニに、ミイがぴしゃりといったのがこの言葉です。
「それがあんたのわるいとこよ。たたかうってことをおぼえないうちは、あんたには自分の顔はもてません」。
このあと、どんなできごとを通じてニンニの顔が見えるようになるかは、これから作品を手に取る人の楽しみにおいておくとして…
この物語には、傷ついた人が回復していくプロセスが、胸が苦しくなるほど正確に描かれています。安心できる居場所を整えることや、やさしく見守ることが欠かせないことは、間違いないでしょう。だけど、最後の一山は、その人が自分で「たたかうってこと」をおぼえることによってしか、越えられないのかもしれません。
あるいは、「自分の顔をもつこと」そのものが、「たたかい」であるといえるかもしれません。顔をもつことによって、また誰かに傷つけられるかもしれない。嫌われたり、しかられたりすることもある。ときには自分が誰かを傷つけることだってある。顔をもつことは、エネルギーがいるし、ときに、怖いことです。
それでも、そこには「なにかをおもしろがる」ことのできる世界が広がっている。目をらんらんと輝かせたいたずら好きのミイが、「さあ、なにしてあそぼう?」と待ちかまえていることでしょう。(A)
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