心理療法とお鍋の話
多くのカウンセリングや心理療法では、時間や場所を定めて定期的にお会いするような枠組みを最初に設定します。これまで人に伝えたことのない感情や傷つきを話すということは、とても不安で勇気のいることです。話してみてかえって傷つくことだってあるので、不安になるのも当然です。だからこそまず安全な場や関係をつくり、変化に必要な時間を保証することが大切なのです。こうした枠組みのことを精神分析では「治療構造」と呼び、ユング派の人は「変容の器」などと表現してきました。ユングは錬金術のメタファーを使って心理療法における変容を語りましたが、話がややこしくなるのでここでは「お鍋」で説明してみます。
心理療法で時間や場所、料金、秘密を守ること、セラピストの役割やクライエントの取り組むことなどを定めるのは、たとえてみれば適切なお鍋を用意して材料を入れて、ぐつぐつと火にかけるようなものです。
心理療法がはじまるとセラピストとクライエントのあいだにはさまざまな感情が動くようになります。信頼感や安心などの肯定的感情もあれば、逆に不安や怒りなどが浮かび上がってくることもあるでしょう。こうした感情が、食材の入った鍋を温める炎となります。料理を通して、生のものが変化して、消化できるようになるのです。ここでいう「生のもの」とは、トラウマや原始的な情動などのことです。他方で「料理されたもの」は、意味をもち、語ったり、表現することができ、心のなかで情感をもって経験することが可能なものです*。
生煮えにならないためには、しっかりと蓋をしなければいけないですし、必要なときまで蓋を開けるのをこらえることも大切です。カウンセリングというのは不便なもので、困ったときにいつでも相談できるというわけにはいきません。クライエントさんは、次の約束のときまで、不安や葛藤を心のなかに抱えておくことが求められます。心もまたひとつのお鍋のようなものです。不安や葛藤をお鍋で料理できるようになることは(そして自分で咀嚼して消化できるようになることは)心の成長の表れのひとつだと思います。
生煮えとは逆に、ときには火が強くなりすぎてしまうことがあるかもしれません。吹きこぼれたり、煮詰まって料理が焦げてしまったり、場合によってはお鍋が割れてしまうことも用心しておかなければいけません。こういうときには、火を弱めたり、水を加えたり、しばらくコンロから離して置いておく必要があります。ここでもやはり「待つこと」「抱えること」が心の成長につながるのだと思います。
*精神分析に詳しい方なら、ビオンの「ベータ要素」と「アルファ要素」という概念を連想されるかもしれません。